ぬじろぐ

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メンタルが強い=人の気持ちがわからない人?

このブログは元々こういうことを書き散らかす場所だった。

まあとにかく、表題の件。
「メンタルが強い人=人の気持ちがわからない人」という話がバズっていたので、ちょっと思ったことを書く。

誰にでも優しい人は実際は誰にも興味がない人だとか、メンタルが強いとは人間の気持ちが分からない冷たい人だとか、そういうのって身も蓋もないというか…悪し様に解釈する言説ってそれらしく言われがちなのだが、私はそうは思わないんですよね。
なぜなら、人の気持ちなんて誰にも分かりゃしないので。
以下、人の気持ちが分かるなどというのは幻想だという思想を持っている人間の戯言として聞いてほしい。

「人の気持ちがわかる」は幻想

私は「人の気持ちがわかる」というのは幻想だと考えている。
他人の気持ちがわかる/わからないなんてのは、結局は想像にすぎない。
たまたま当たることもあれば、外れているのに「わかってもらえた」と本人が思い込むこともある。
本人が言語化できていないところに、それっぽいことを言われて「そう、まさにそれが言いたかったんだ!」とか思ってしまうアレだ。人間の記憶や気持ちなんか簡単に上書きされる。
逆に、実際は当たっているのに「そんなこと思ってない!」と反発心で否定されることもある。本人も単なる反発でやってる自覚は無かったり、反発してるうちに記憶が上書きされて本当のことになってしまったりする。

結局のところ、私たちがやっているのは他人のシミュレーション程度の話であって、精度や解像度の差はあれど、「わかっている」とは違う。
本人ですら自分の気持ちをよくわかっていないのだから、他人の気持ちなんか尚更分かるわけがない。

ではなぜ「人の気持ちがわからない人」と言われるのか

そうなると問題は、「誰にもわからないのが当たり前なのに、なぜ一部の人が”わからない人”と呼ばれてしまうのか?」という点になる。
ここで言う「人の気持ちがわかる」とは、実際の理解ではなく、気遣いや優しさとして表れる態度のことだろう。

泣いている人に理由を聞いて慰めるのは「優しい人」であり、
泣いている人を叱りつけて「泣くな」と突き放すのは「人の気持ちがわからない人」になる。
あくまで単純な例だが。

ただし、この「優しさ」はかなり曲者だ。
例えば、病気で甘いものを食べてはいけない人がいるとする。
そこで「かわいそうだから」と甘いものを渡す人は、お菓子を欲しがっている人からすれば「この人は私の気持ちをわかってくれる優しい人」になるかもしれない。
だがそれは本当に優しさだろうか?
むしろ、「嫌われたくない」「かわいそうだからあげたい」という欲望に負けてお菓子をあげてしまっているだけではないだろうか。

一方で、恨まれても嫌われても「ダメなものはダメ」と渡さない人は冷たく見える。
だが、それこそ目先の感情や欲望に流されない態度=強さではないか。

この構図で考えると、「メンタルが強い=人の気持ちがわからない」という評価は、実は「本質よりも感情的な共感を優先する人」の側からの視点なのかもしれない。
あえてきついことを言うと、自分と他人の感情の区別が曖昧になってるとか、わかりやすく優しくする人を「人の気持ちが分かる」と評価していないか。
実際には人の気持ちなんか全然分からないし、どうでもいいと思っていても、表面上優しい風に振舞うだけで、人は「この人は私の気持ちを分かってくれてる!」と思い込むわけだ。
実際には「分かって欲しい」なのだが、人間は願望と現実をあまり区別できない。

「わからない人」ではなく「わからないと思われる人」

本当にその人のことを思って自他の区別を保ったまま接した結果、「あの人は私の気持ちを分かってくれない、冷たい」と思われてしまう例もあれば、マジで本当にどうしようもなく自分勝手で人の気持ちや事情を想像しない例もあるだろう。
全然違うように見えるが、共通点はあって、「他人の気持ちを考えすぎないこと」だと思う。
他人の気持ちを考えないのが良いわけではない(それは後者の自分勝手野郎になってしまう)
考え「すぎ」ないことだ。そんなのはどうせ分からないんだから。
人の気持ちが分かるではなく、人の気持ちを想像する気がある、くらいが良いんじゃないですかね。
分かるをめざすまで行くと危ねえからよ。

どちらにしても、分からないのは当たり前なので、実際の所は「人の気持ちが分からない人」ではなく「人の気持ちが分からないと受け取られる人」とか「気持ちをわかってもらえたと思ってる人」でしかないのだよなあという言葉遊びみたいな着地になってしまうのですが。